3月17日の日記
2013年3月17日短気な自分が心底嫌だった。自分の行為の愚かさと思考の愚かさ、それらを思い知らされるのが本当に苦しかった。でももしかして、思考の方の愚かさはそこまで恥なくていんじゃないの?って。考えちゃうもんは仕方ないんだよ、自我のせいなんだから。実際に何か愚かな言動を取ってしまったときに初めて悔やめばいいんじゃないのか。自分を責めるのはそのときだけでいいじゃないか。
例えば何か思い通りにならないことがあったとして。短気な私はすぐにカッとなってしまう。でもそこまではいいんだよ。思うことは制御不能で、自我のせいなんだから。ではもし、カッとなってしまってるその思考・自我を、自分自身と切り離して考えてみることができるとしたら…?これは瞑想自体のテクニックの話(を私なりに勝手に解釈したもの)。私にできるかどうかはともかく、大事なのはできる人もいるということ。自分の思考を『観察する』立場に持っていく、ようなことらしいけどよく分からないけど。こんな風に考えてみることは、私にとって少なくとも『まぁいっか』と口に出す方法よりは効果がありそうだ。効果があるというのはつまり、その思考から解放されて楽になるという意味。
ちなみに、私にとって日記を書くということは、思考を観察する行為にあたるんだろうか?だから書くことで楽になっているのだろうか?今の私にはちょっと判断できない。ただ、書いた後読み返したときに必ずしも楽になるわけではなかった。自分の書いた文章がどうにも気持ち悪かったり、滑稽で恥ずかしかったり、そんなものを人前に晒したりしてなんて愚かなんだろうと後悔することも多々ある。耐えきれずに消すこともあるし、消したという行為がさらに愚かさを増幅させて…なんていうドツボにハマることもある。私は今日改めて思った。表現は排泄とか言いつつ、その汚物を私は何度も観察しすぎ、弄くりすぎなんだ。確かにものすごい●が出たらすぐに流すのが惜しいみたいな気持ちになるのは不思議じゃないかもしれないが。しかし何のために私は表現は排泄なんて言い訳をしているのか、今一度確認すべきだ。つまり、『私の汚物が臭い!!!なんでこんなに臭いの!!!!』なんて言って苦しむのはアホの極みだということ。あと、書いてしまったことを後から愚かだの恥ずかしいだのごちゃごちゃ思うのは、自我のせいでわいてくる制御できない思考に対してごちゃごちゃ思うのと少し似ていると思う。だからこそ、それらを両方やめることもできるんじゃないかと思う。ここは私のトイレだ。好きなように使っていいはず。
人にはそれぞれ自分にあうストレス発散方法があって、趣味とか、リラックス方法とか、呼び方は色々あるけど目的はきっとだいたい同じだと思う。音楽鑑賞・映画鑑賞・旅・カラオケ・半身浴・読書・ものづくり・ネット・食事・睡眠・セックス…全部一緒ごたにしていいのか分からないけど、それらに没頭している間は煩わしい思考から逃れられる、だからこそその人に必要な時間だったりする。それがないときっとバランスを崩して生活に支障をきたしてしまう。私にとってのストレス発散方法、つまり思考をすっ飛ばす方法は、過食・睡眠(過食後もしくは過食嘔吐後の睡眠に限る)・ネット(日記、もしくは過食しながら2ちゃん)だった。カラオケもまぁ好きだけど。それが出産後、それらのどれもできなくなってしまった。他に方法は無かったのか?無かった。何をするにも『食べたい』気持ちが頭から離れなくて、その衝動すらも飛ばすほど没頭できる、しかも苦しみを伴わないような手段というのは、一切無かった。そんな中、何かしら家事をサボろうとすれば完璧主義様が怒り出し、すべきことを終えて休憩しようにも、常に過食衝動様が暴れ回した。娘のぐずりが怖くて、お腹すいたらいけないから、お腹すくと泣き過ぎてうまくミルク飲めなくなるから飲めるときにと思ってミルク毎日何度も何度も飲ませて、何もかもギリギリで、ギリギリでそりゃあもう…しんどかったな…。
つまり、ストレス発散方法が1つも無い状況というのはさすがに問題あり過ぎだったということ。今は毎日、過食・過食後睡眠・ネット、どれもやれてる。この過食はストレスにならない程度のものだ。これらは今の私に最低限必要なものなんだと思う。
例えば何か思い通りにならないことがあったとして。短気な私はすぐにカッとなってしまう。でもそこまではいいんだよ。思うことは制御不能で、自我のせいなんだから。ではもし、カッとなってしまってるその思考・自我を、自分自身と切り離して考えてみることができるとしたら…?これは瞑想自体のテクニックの話(を私なりに勝手に解釈したもの)。私にできるかどうかはともかく、大事なのはできる人もいるということ。自分の思考を『観察する』立場に持っていく、ようなことらしいけどよく分からないけど。こんな風に考えてみることは、私にとって少なくとも『まぁいっか』と口に出す方法よりは効果がありそうだ。効果があるというのはつまり、その思考から解放されて楽になるという意味。
ちなみに、私にとって日記を書くということは、思考を観察する行為にあたるんだろうか?だから書くことで楽になっているのだろうか?今の私にはちょっと判断できない。ただ、書いた後読み返したときに必ずしも楽になるわけではなかった。自分の書いた文章がどうにも気持ち悪かったり、滑稽で恥ずかしかったり、そんなものを人前に晒したりしてなんて愚かなんだろうと後悔することも多々ある。耐えきれずに消すこともあるし、消したという行為がさらに愚かさを増幅させて…なんていうドツボにハマることもある。私は今日改めて思った。表現は排泄とか言いつつ、その汚物を私は何度も観察しすぎ、弄くりすぎなんだ。確かにものすごい●が出たらすぐに流すのが惜しいみたいな気持ちになるのは不思議じゃないかもしれないが。しかし何のために私は表現は排泄なんて言い訳をしているのか、今一度確認すべきだ。つまり、『私の汚物が臭い!!!なんでこんなに臭いの!!!!』なんて言って苦しむのはアホの極みだということ。あと、書いてしまったことを後から愚かだの恥ずかしいだのごちゃごちゃ思うのは、自我のせいでわいてくる制御できない思考に対してごちゃごちゃ思うのと少し似ていると思う。だからこそ、それらを両方やめることもできるんじゃないかと思う。ここは私のトイレだ。好きなように使っていいはず。
人にはそれぞれ自分にあうストレス発散方法があって、趣味とか、リラックス方法とか、呼び方は色々あるけど目的はきっとだいたい同じだと思う。音楽鑑賞・映画鑑賞・旅・カラオケ・半身浴・読書・ものづくり・ネット・食事・睡眠・セックス…全部一緒ごたにしていいのか分からないけど、それらに没頭している間は煩わしい思考から逃れられる、だからこそその人に必要な時間だったりする。それがないときっとバランスを崩して生活に支障をきたしてしまう。私にとってのストレス発散方法、つまり思考をすっ飛ばす方法は、過食・睡眠(過食後もしくは過食嘔吐後の睡眠に限る)・ネット(日記、もしくは過食しながら2ちゃん)だった。カラオケもまぁ好きだけど。それが出産後、それらのどれもできなくなってしまった。他に方法は無かったのか?無かった。何をするにも『食べたい』気持ちが頭から離れなくて、その衝動すらも飛ばすほど没頭できる、しかも苦しみを伴わないような手段というのは、一切無かった。そんな中、何かしら家事をサボろうとすれば完璧主義様が怒り出し、すべきことを終えて休憩しようにも、常に過食衝動様が暴れ回した。娘のぐずりが怖くて、お腹すいたらいけないから、お腹すくと泣き過ぎてうまくミルク飲めなくなるから飲めるときにと思ってミルク毎日何度も何度も飲ませて、何もかもギリギリで、ギリギリでそりゃあもう…しんどかったな…。
つまり、ストレス発散方法が1つも無い状況というのはさすがに問題あり過ぎだったということ。今は毎日、過食・過食後睡眠・ネット、どれもやれてる。この過食はストレスにならない程度のものだ。これらは今の私に最低限必要なものなんだと思う。
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